特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

再び、「色の認識」に挑む

 「色の認識」については、かつてうまくいかなかった経験がある(→こちら)。その時の反省として、私自身が色の分節化のしくみを考えていなかった、ということがある。赤・青・黄の三色のコーンを、「赤はどれ?」などといって選ばせようとしただけたった。このトレーニングは、はっきりいえば、色の認識ができることが前提になっていた。色が認識できることを前提に、色の認識を育てようとしていたのだ。パラドックスである。色の弁別と色の名前を分けて考えたことが間違いだったのではないか、と今は考えている。人間は、アプリオリに色を認識し弁別するのではない。赤や青は単なる色の名前ではなく、概念なのであり文化の所産なのだ。フェルナンド・ソシュールが言語が世界を分節化するといったことが,色にも該当するのではないか。色のグラデーションの中で、それぞれの色の境目がどこか。どこまでが赤で、どこまでが黄色か。青はどこからどこまでか。それらは、属する文化が決定している。赤という概念のない文化に属している人々には、赤は見えないのだ。色の認識を育てるということは、文化を身体に取り込むことだ。だから、「色の認識」は難しい。

 対象は、高等部2年の男子生徒である。重い知的障害があり、発語はなく、排便も自立していない。前任者の申し送りでは、色の認識・弁別はできていないということであり、事前のテストでも同ように評価できると考えた。

 素人の浅知恵でやってみたことは、基本的に前回と大きく変わるものではない。ミニコーンを同じ色のものに重ねていくトレーニングである。前回と異なるのは、①3色ではなく、赤・青・黄のうちの2色の組み合わせで取り組んだこと、②始める前やトレーニング中に、「これは赤」「これは青」などと声を掛けたこと、③トレーニングが自己目的化するのを避けるため、時折ウッドビーズを使った色の分別トーニングをやったこと、などである。

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 ミニコーンの場合は、コーンをランダムに一つずつ渡し、同じ色のコーンに重ねていく。以前の生徒と違い、今回の生徒はコーンを重ねることに興味やこだわりがなかったので、色の弁別という目的が明確化したと思う。「これは赤」「これは青」などと声を掛けることは、処理しなければならない情報が増えるので難易度が増すとも思えるが、言葉が色を弁別する指標になるのではないかと考えた。一応、かつて教え子だった作業療法士にも助言を求めたが、同意見だった。言葉によって、色の世界を分節化するわけだ。ウッドビーズの場合は、ビーズを一つずつ渡し、同じ色のビーズが入っている箱に入れるというものである。やはり、「これは赤」「これは青」などと声掛けした。ミニコーンもウッドビーズも、基本2色でやったが(赤・青・黄の組み合わせ)、正解率が上がってからは3色の弁別も取り入れた。2色から始めていい感じだったら3色にも取り組ませてみるという感じである。それでうまくいかなければやめて、2色をもう一度やってやめた。必ず最後は称賛し、できない場合でもだらだらやらずに時間を決めてやめた。

 正解率はトレーニングを重ねるにしたがって向上し、80%程度までいった。ただ、半年以上続けたが、100%だったことは一度もなかった。80%程度なので、偶然とは考えにくい気がしたが、事実として100%の正解は一度もなかった。何故だろう。この生徒が、飽きてきていい加減にやったとも考えられるし、ふざけてわざと間違えたとも考えられる。色の残像が残って間違えたとも考えられる。わからない。やはり、素人の浅知恵である。

 ただ、反省として、こういった「色の認識」に特化したトレーニングだけでなく、日常生活の中でも、「色の弁別」を利用する機会をもっと設ければよかった、と思っている。トレーニングが自己目的化していたかもしれないという反省もある。ノイズを排して特化したトレーニングは必要だと考えるが、それが生活の中で生かされてはじめて本人の達成感や喜び、そしてモチベーションも生じるのかもしれない。実際、多くの人の場合、生活の中で「色の認識」を獲得していくのだ。

 やはり、「色の認識」は難しい。