特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

境界知能と高校の現場

「境界知能」については、以前にも記したことがある(「知的障害と境界知能」「IQと境界知能」)。

「境界知能」とは、一般には知能指数(IQ)が「70以上85未満」の人をいう。IQの平均値は100であり、その1偏差値は15なので、平均値±15、すなわち「85以上115未満」が平均域となる。「IQ70未満」は一般には知的障害とされるから、その間の「70以上85未満」は、知的障害と平均域のボーダーにあたり、「境界知能」ともいわれる。人口の約14%程度が該当するとされ、成人で中学校3年生程度の知的能力だとされる。

知的障害が「IQ70未満」とされたのは1970年代以降のことであり、それ以前はIQ85未満だった時期もあった。また、1965~1974年まで使用された世界保健機関(WHO)の国際疾病分類第8版でも「IQ70~84」は境界精神遅滞と定義されていた。現在、「IQ70未満」が知的障害とされてる背景には、「IQ70以上85未満」を知的障害に含めてしまうと、あまりに知的障害の人口が多くなってしまい、支援者の確保や財政の面で困難だという事情もあったようだ。したがって、「IQ70以上85未満」の人は本来支援が必要な人たちである可能性が高いが、行政の福祉サービスの支援から外れてしまう人たちなのである。

こうした境界知能(場合によっては知的障害)の可能性が高いのではないかと思われる生徒が、現在の高校には少なからず在籍している。原因の一つは少子化に伴う高校の定員割れの現実だ。私の住む宮城県においても、仙台市以外の地域にある高校は軒並み定員割れである。その傾向は《底辺校》《困難校》や工業・商業・農業・水産などの実業高校だけでなく、進学者の多い地域の拠点校にも及んでいる。定員割れの場合、よほどの合理的理由がなければ、不合格にできないのが現実だ。それが県の方針なのである。一方、中学校の特別支援学級に在籍する生徒も減少している。ずっと以前であれば、行政によって半強制的に特別支援学級に回された生徒が、人権(自己決定権)やインクルーシブ教育の理念を背景として、保護者や本人の希望で普通学級で学んでいる現実がある。普通学級の授業にまったくついていけなくても、普通学級に在籍し続けるのである。知能検査も受けないまま、普通学級に在籍するのだ。もちろん、支援員の配置などの配慮はあるようだが、根本的な解決にはなっていないようだ。

こうして、境界知能(場合によっては知的障害)が疑われる生徒たちは、有効な支援を受けることなく、中学校を卒業して高校に入学してくることになる。多くの先生方はそうした生徒が入学してくることに問題を感じているようだが、現実的な傾向は大きく変わりそうもない。おそらくは、学校が変わるしかないのであろう。先生方がそうした生徒をどのように受け入れるのかを考え、授業形態や評価システムなど学校のしくみそのものを変えるしかないのだ。それは学校の在り方の明治以来の大変革にならざるを得ないだろう。再任用教員としては、そのような大きな変化に適応できる自信も時間もない。

 

(参考)宮口幸治『境界知能の子どもたち』(SB新書:2023)

学習障害(LD)への対処法

学習障害(LD)を理解するためのメモである。高校現場での利用に資するため、岩波明発達障害の子どもたちは世界をどう見ているのか』(SB新書:2023)によって、学習障害(LD)への対処法の概要をまとめておく。

 

実際には、学習障害(LD)は一人一人の様態が異なるため、「読む」「書く」「計算する」という行為をそれぞれ細かいプロセスに分解して、《そのプロセスのどこでつまずいているのか》《そのとき子供にとって「世界」がどんなふうに見えているのか》を分析することが重要だという。そのため、障害のある当事者から正確にヒアリングして、対処法を検討する必要がある。

以下、同書に掲載されている対処例をメモしておく。

 

《読むのが苦手な人への対処法》

  • 読みやすくする工夫(文字を拡大する、ルビを振る、行間をあける、背景の色を変える、書体を変える、間違えやすい文字にマーカーで色付けするなど)。
  • 読み飛ばしをなくす工夫(指でなぞりながら読む、しおりや定規をあてながら読む、鉛筆や定規ですでに読んだ行を隠す、厚紙などを切って一行だけ見えるようにするシートを使う)。
  • 音声教材やイラストの多いテキストなど、特性に合わせたものを使用する。
  • ゆっくり読ませる。
  • 指などで一文字一文字を追いながら、読ませる。
  • 文字と音の正確な関連を教える。
  • 文の区切りを、1マスあけたり、「/」を入れたりして示した文で学ぶ。

 

《書くのが苦手な人への対処法》

  • 大きなマス目や広い罫線のノート、紙を使う。
  • 間隔をあけて書く。
  • ゆっくりていねいに書く
  • なぞり書きさせる、文字をパーツに分けて示す。
  • 点結び、線結びの練習をする。
  • 板書を写真に撮る、音声を自動で文字起こしするなど、ICTを有効活用する。
  • 漢字の覚え方を工夫する(書き順を音声化する、イラストなどのイメージにする、へんとつくりを別々にしたカードを作成し組み合わせる)
  • 文章を書く際は、まずは頭の中にあるものを単語レベルで書き出してみる
  • 模範的な文章を書き写す
  • パターン化した文章を数多く書く
  • 下書きを手伝う

 

《計算するのが苦手な人への対処法》

  • ゆっくり落ち着いて計算させる
  • 数字や記号は大きく印字する
  • 日々の生活の中で数に親しませる(お風呂で数を数える、おやつの数を数える)
  • ブロックやおはじきで数の概念を理解する
  • マス目のあるノートを使う
  • 九九は、表を見ながら覚える
  • パソコンのCGソフトなどを活用し、立体をリアルに再現する
  • 積み木などで立体をつくる
  • 数式の横に、文章でやり方などの説明を補足する
  • 長い文章問題は分解し、区切りごとに「ここまでは分かった?」と理解度を確認する
  • 問題文の内容をわかりやすく説明する
  • 少数は数直線を使用して理解させる
  • 分数はピザを切り分けるところから理解させる

 

《共通の対処法》

  • スマートフォンタブレット(デジタル教科書、アプリなど)を積極的に取り入れる。
  • 動画、漫画、図鑑などを有効活用する。
  • 体を動かし、体験しながら覚える
  • 一度に何問も解かせるのではなく、理解して正解出来たら休憩あるいは終了し、それを日々繰り返す。
  • できないことを叱るのではなく、一緒に考える。
  • 他の子どもと比較しない。
  • 落ち着いた雰囲気、環境を心がける

 

なお、LD全般にかかわる指導の原則として、次の3つを確認しておきたい。

  • 指導内容を細分化する
  • 具体的な教材を使用する
  • 子どものペースに合わせて繰り返し指導する

学習障害(LD)と教科の授業

学習障害(LD)について理解するためのメモである。高校現場での利用に資するために、岩波明発達障害の子どもたちは世界をどう見ているのか』(SB新書:2023)によって、学習障害(LD)の子どもたちが小学校の国語・算数の授業で抱える問題について、まとめておく。高校の現場でも参考になると思われる。

《国語》

▢ 読むことが苦手で、正しく読めない。

▢ 読む速度が遅く、正確でない

▢ 読み間違うことが多く、自分で変えて読んでしまう。

▢ 読めても、意味を理解していない。

▢ 単語の区切りがわからない。

▢ 文字を抜かして読む。

▢ 文字を正しく書けない。

▢ 書き取り・文章・作文を書くことが苦手。

▢ 漢字の部首(へんとつくり)を間違う。

▢ 複数の読みがある漢字に対応できない。

▢ 句読点など、文法に誤りが多い。

▢ 同じ音の表記に誤りが多い。

▢ 文章のルールがわからない(主語が抜ける、「てにをは」の誤りなど)。

読字障害・書字障害とも知覚認知に関係ある部分についてはそのメカニズムを理解しやすいが、「複数の読みがある漢字に対応できない」や「同じ音の表記に誤りが多い」などが生じるメカニズムについて今一つすっきりと理解できない。

 

《算数》

▢ 数の概念が理解できない。数式や記号の意味がわからない。

▢ 暗算ができない。計算の時に指を使わないとできない。

▢ 数字の桁が理解できない。

▢ 繰り下がり、繰り上がりがわからない。

▢ 九九を暗記しても応用できない。

▢ 文章問題が苦手、わからない。

▢ 応用問題、図形問題がわからない。

「数字の桁が理解できない」とはどのようなことだろうか。十進法が理解できないということだろうか。「九九を暗記しても応用できない」とは機械的な暗記はできるが、かけ算のしくみや意味が理解できないということだろうか。

学習障害(LD)の「症状」

学習障害(LD)について理解するためのメモである。

岩波明発達障害の子どもたちは世界をどう見ているのか』(SB新書:2023)によって、その「症状」をまとめておく。

 

[読字障害の症状]

〇文字が歪んで見えたり、重なって見えたりする。

〇似た文字を区別することが苦手である。

〇文中の語句や行を抜かしたり、繰り返し読んだりする。

〇読み間違いか多い。

〇漢字の意味はわかるのに読めない。

〇単語や文の区切りがよくわからない。

〇音読すると意味がわからなくなってしまう。

〇読み方がたどたどしい。

〇勝手な読み方をする。

読字障害のメカニズムについては理解しやすい気がする。多くは「視覚認知」に関係する問題なのだろう。

 

[書字障害の症状]

〇言葉を理解しいても、文字を書けない。

〇鏡文字を書いてしまったり、勝手な文字を書いてしまう。

〇黒板やプリントの字を書き写せない。

〇形が似ているひらがなやカタカナを書き間違える(「ぬ」と「め」など)。

〇小さな「っ」の音、最後が「ん」の音、「しゃ」など2文字の音がかけない。

〇ひらがなは書けても、漢字が書けない。

〇漢字のへんとつくりが逆になる。

〇書き順が覚えられない。

〇文字の形や大きさがバラバラになったり、マス目からはみ出す。

〇文章が読みにくい、句読点が抜ける。

〇文法的に誤りが多い。

〇話していることが書き記せない。

書写障害のメカニズムについては、すっきり理解しにくい。視覚認知や聴覚認知の問題が背景にある場合もあるようだ。

 

[算数障害の症状]

〇数字の桁が理解できない。

〇繰り上がり、繰り下がりがわからない。

〇九九は暗記できても、計算に使えない。

〇暗算ができない、指を使って計算する。

〇算数の用語や、数式の記号がわからない。

〇数字や記号の見落としが多い。

〇図形が理解できない。

〇文章問題で何を問われているのかわからない。

〇自分で計算式を立てられない。

基本的な数字の概念や計算記号、数字の規則性を理解するのが困難だということなのだが、目に見えない概念的思考が苦手ということなのだろうか。読字障害や書字障害は「認知」の問題として理解できるが、算数障害はどうもよくわからない。

学習障害(LD)について

現在の高校の現場には、学習障害(LD)の診断のある生徒やそれと疑われる生徒が多く在籍している。学習障害(LD)について、岩波明発達障害の子どもたちは世界をどうみているのか』(SB新書2023)によって概要をまとめておく。

学習障害は、Learning Disorders あるいはLearning Disabilities の訳であり、LDと略していわれることが多い。文部科学省の定義では、「全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する、推論するなどの能力と使用に著しい困難を示す、さまざきな障害」とされる。したがって、概念上、特別支援学校には学習障害(LD)は存在しないことになる。だから、学習障害(LD)は支援学校勤務ではあまり学べない分野だ。もちろん、現実には知的な遅れがあっても、特定の分野の能力が弱いということはあるのだが。学習障害(LD)の原因は、脳の特定の部位における何らかの機能障害に起因するものと推定されているが、現在のところ明確な結論は得られていないようだ。アメリカ精神医学会の精神疾患の診断・統計マニュアル(第5版)」(DSM-5)によれば、学習障害(LD)の下位分類として、読字障害・書字障害・算数障害があげられている。

読字障害(Dislexia ディスレクシア)は、学習障害(LD)のうち最も頻度が高いとされる障害であり、学習障害(LD)の多くは読字障害であるともいわれる。「読み」に困難がある障害であり、単語のまとまりから1つの単語を識別したり、1つの単語の中の音素を識別したりするのが困難であるとされる。具体的には、「読み」そのものに時間がかかる例、行間に隙間がないと文字を読むことが困難な例などがみられるらしい。読字障害のある人は、文字が《にじむ》《ゆらぐ》《左右逆さまになる》《かすむ》などのように見え、読み間違いを起こすのだという。「読む」とは、文字を認識して音と結び付け、いくつかの文字のつながりを単語として認識し、文を理解する行為であり、このプロセスのどの段階でつまずいているのかを見極めることが大切なのだという。

書字障害(Dysgraphia ディスグラフィア)は、文字や文章を書くことに困難が生じる障害であり、書字障害のある人は、形の似た文字を混同したり、文字の順番を間違えたり、書き間違えたり、漢字を部分的に間違えたりするようだ。「書く」といってもいろいろあるが、お手本を書き写すことが困難な場合は、視覚認知の問題が絡んでいることもあり、先生の話したことを書くのが困難な場合は聴覚認知の問題が背景にあることもあるらしい。また、読字障害と書字障害の2つ、つまり「読むことだけでなく、書くことも苦手」な人も多いという。

算数障害(Dyscaliculia ディスカリキュリア)は、計算や推論が困難な障害であり、数字や記号がわからない、計算ができない、九九が覚えられない、などの症状がみられるという。算数障害のある人は、「1,2,3・・」などの数字の概念や、「+,-,×,÷,」などの記号や数字の規則性を認識するのが困難なのだという。よく考えてみれば、数字や演算は目で見えるものではなく、概念的思考なのであり、簡単なことではないのだ。

学校教育では、学年が上がるにつれ、各科目で求められる思考が高度化・複雑化していくため、学習障害(LD)の悩みは学年が上がるにつれ大きくなる傾向があり、そのことが原因で自信を失い、うつや不安障害などの二次障害につながる場合もある。一方、学習障害(LD)は、自閉症スペクトラム障害ASD)や注意欠如多動性障害(ADHD)、さらには発達性強調運動障害との併存も多く、社会的コミュニケーションへの影響も懸念される。

ところで、LDの症状は「~できない」ではなく、「~するのが難しい」というものである。時間がかかったり、サポートが必要だったりするが、できるのだ。実際、最近の入学試験では、読字障害について《問題文をよみあげてくれる》などの配慮があったり、書字障害では《試験時間の延長や問題用紙の拡大》、算数障害でも《試験時間の延長》などの配慮がなされることがあるようだ。実際、私の勤務する高校でも、問題用紙・解答用紙の拡大や試験時間の延長、漢字にルビをふるなどの配慮がなされたことがある。

 

岩波明発達障害の子どもたちは世界をどうみているのか』(SB新書2023)

発達特性へのアプローチと二次障害

本田秀夫『発達障害』(SB新書2018)は、発達障害へのアプローチの方法として「ボトムアップ」式と「トップダウン」式を挙げている。

ボトムアップ」式とは発達を促進し能力を底上げしようとするアプローチであり、発達の特性があって苦手なところを少しでも普通に近づけようとする方法である。一方、「トップダウン」式とは特性があって苦手なところについて、それを補完する手段を考えるアプローチである。

本田氏は次のように述べる。

発達の特性は一種のスタイルなもので、努力や練習だけで底上げできるものではないので、「ボトムアップ式」だけではうまくいきません。

たとえば、親や学校の先生などがよかれと思って、子どもの苦手なことの練習を重点的に行うという「ボトムアップ式」のケースがときおり見られます。しかし、苦手なことの背景に発達の特性がある場合、そういった練習はまずうまくいきません。子どもを苦しませるだけです。

もちろん、本田氏は「ボトムアップ式」を全否定しているわけではないが、「環境調整を行うときは、このような混乱をさけるため、最初から《トップダウン式》のアプローチをとることが大切です。」と述べている。

子ども苦しませることが《二次障害》につながることは、十分に理解しておかなければならない。発達障害がある人には自分に自信がもてず、何ごともうまくいかないのではないかと悲観的に考え、不安を抱える人が多いようだ。さらに、本田氏は述べる。

そうした精神的な不調は、発達の特性ではなく、主に生活上のストレスによって引き起こされる、二次的な問題です。

 

特別支援学校では4年間勤務し、いろいろなことを学び考えた。現在は再任用教諭として高校に勤務しており、特別支援学校での経験を、高校でも生かせればと考えている。実際、高校の現場では、障害のある生徒はどんどん増えている。自閉症スペクトラムASD)や注意欠如多動性障害(ADHD)はもちろんのこと、学習障害(LD)や高次脳機能障害、難病を抱えた生徒も入学している。

今思えば、特別支援学校時代は「ボトムアップ」式のアプローチか多かったと思う。それらの取り組みは、多分に自己満足的な要素を含んでおり、それはこのブログの過去の記事からも感じ取られる。一方、それらの取り組みが可能だったのは、支援学校に人的・時間的余裕があったからだ。障害のある生徒と1対1できちんと向き合って取り組める環境があったのだ。

高校の現場はそうはいかない。生徒側からみれば正規の勉強や課外活動もある。教師側からみれば授業や分掌の仕事・部活動指導と並行して、それらの障害と向き合わなければならない。「ボトムアップ式」的なアプローチは、それ自体、現実的に非常に困難である。

《二次障害》を回避する視点からも、高校現場の現実的な状況からも、手探りで、「トップダウン」式のアプローチを考えていかなければならない。

再び、「色の認識」に挑む

 「色の認識」については、かつてうまくいかなかった経験がある(→こちら)。その時の反省として、私自身が色の分節化のしくみを考えていなかった、ということがある。赤・青・黄の三色のコーンを、「赤はどれ?」などといって選ばせようとしただけたった。このトレーニングは、はっきりいえば、色の認識ができることが前提になっていた。色が認識できることを前提に、色の認識を育てようとしていたのだ。パラドックスである。色の弁別と色の名前を分けて考えたことが間違いだったのではないか、と今は考えている。人間は、アプリオリに色を認識し弁別するのではない。赤や青は単なる色の名前ではなく、概念なのであり文化の所産なのだ。フェルナンド・ソシュールが言語が世界を分節化するといったことが,色にも該当するのではないか。色のグラデーションの中で、それぞれの色の境目がどこか。どこまでが赤で、どこまでが黄色か。青はどこからどこまでか。それらは、属する文化が決定している。赤という概念のない文化に属している人々には、赤は見えないのだ。色の認識を育てるということは、文化を身体に取り込むことだ。だから、「色の認識」は難しい。

 対象は、高等部2年の男子生徒である。重い知的障害があり、発語はなく、排便も自立していない。前任者の申し送りでは、色の認識・弁別はできていないということであり、事前のテストでも同ように評価できると考えた。

 素人の浅知恵でやってみたことは、基本的に前回と大きく変わるものではない。ミニコーンを同じ色のものに重ねていくトレーニングである。前回と異なるのは、①3色ではなく、赤・青・黄のうちの2色の組み合わせで取り組んだこと、②始める前やトレーニング中に、「これは赤」「これは青」などと声を掛けたこと、③トレーニングが自己目的化するのを避けるため、時折ウッドビーズを使った色の分別トーニングをやったこと、などである。

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 ミニコーンの場合は、コーンをランダムに一つずつ渡し、同じ色のコーンに重ねていく。以前の生徒と違い、今回の生徒はコーンを重ねることに興味やこだわりがなかったので、色の弁別という目的が明確化したと思う。「これは赤」「これは青」などと声を掛けることは、処理しなければならない情報が増えるので難易度が増すとも思えるが、言葉が色を弁別する指標になるのではないかと考えた。一応、かつて教え子だった作業療法士にも助言を求めたが、同意見だった。言葉によって、色の世界を分節化するわけだ。ウッドビーズの場合は、ビーズを一つずつ渡し、同じ色のビーズが入っている箱に入れるというものである。やはり、「これは赤」「これは青」などと声掛けした。ミニコーンもウッドビーズも、基本2色でやったが(赤・青・黄の組み合わせ)、正解率が上がってからは3色の弁別も取り入れた。2色から始めていい感じだったら3色にも取り組ませてみるという感じである。それでうまくいかなければやめて、2色をもう一度やってやめた。必ず最後は称賛し、できない場合でもだらだらやらずに時間を決めてやめた。

 正解率はトレーニングを重ねるにしたがって向上し、80%程度までいった。ただ、半年以上続けたが、100%だったことは一度もなかった。80%程度なので、偶然とは考えにくい気がしたが、事実として100%の正解は一度もなかった。何故だろう。この生徒が、飽きてきていい加減にやったとも考えられるし、ふざけてわざと間違えたとも考えられる。色の残像が残って間違えたとも考えられる。わからない。やはり、素人の浅知恵である。

 ただ、反省として、こういった「色の認識」に特化したトレーニングだけでなく、日常生活の中でも、「色の弁別」を利用する機会をもっと設ければよかった、と思っている。トレーニングが自己目的化していたかもしれないという反省もある。ノイズを排して特化したトレーニングは必要だと考えるが、それが生活の中で生かされてはじめて本人の達成感や喜び、そしてモチベーションも生じるのかもしれない。実際、多くの人の場合、生活の中で「色の認識」を獲得していくのだ。

 やはり、「色の認識」は難しい。

「速く歩く/走る」を育てる

 かつて私が担当した、動作の遅い生徒を、速く歩いたり走ったりできるようにしようとした取り組みについてである。彼は、高等部2年生で発語がなく排便が自立していなかった。

 担当する前年、なかなか歩こうとしない彼をよく見かけた。歩いてもスピードが遅く、担当の教師に背中を抱えられ押されながら歩いていた。廊下に座り込んで動こうとしないこともしばしばだった。前年の担当の教師は、静的弛緩誘導法を実践していたようだったが、目に見える形での進展はなかったようだ。私自身、静的弛緩誘導法については、簡単な研修を受けた程度で詳しくなかったが、違う方法がいいのではないかと思った。確信があったわけではない。意外なことだが、彼の骨格や筋肉、体幹がしっかりしていたからだ。

 取り組んだのは、①彼とラポートを築くこと、②動作法とストレッチ、③ウォーキング&ランニング、④ミニハードルなどを使ったトレーニング、である。

 ①《彼とラポートを築くこと》については、手をつなぐなどの身体的接触や、トーンの低い声で話しかけ、彼を落ち着かせ安心させることに腐心した。「大丈夫だよ。」などと何度も語りかけ、とにかくこの先生といれば安心だと思ってもらえるように努めた。どういう訳か、初日から座り込んだりすることなく、概ね私の指示通り動いてくれることが多かった。

 ②《動作法とストレッチ》については、途中から導入した。しっかりしてはいるが硬い筋肉に刺激を与えるためである。動作法は危険がともなう。間違うと、可動域を超えて怪我をさせる危険がある。私は手で握らず、彼の指を私の手にひっかける感じで行った。痛ければすぐに彼自身が離せるようにするためである。ストレッチは高校教師時代に部活動で行ったもののうち、できそうなものを選んだ。とくに、腕を伸ばすことと、太ももの裏側(ハムスプリング)を伸ばすことを中心に行った。

 ③《ウォーキング&ランニング》については、毎日行った。朝の運動の時間に学校中の廊下を歩いたり走ったりした。教室移動などすべての移動の際、行った。私は、決して生徒の前を行かないよう心掛けた。後ろから着いて行き、「1,2,1,2」と声を掛けた。号令の声掛けは、はじめはこちらが生徒のペースに合わせた。慣れてきたところで、少しずつ号令を速くすると生徒が合わせるようになってきた。時折、背中を押してスピードを上げることを示唆すると、スピードを上げることも増えてきた。彼のモチベーションを高めるために、iPadで好きな音楽を流しながらウォーキング&ランニングをさせたこともあった。毎日、決まった場所にくると、生徒の背中を押してダッシュを行った。もちろん、はじめは緩やかなダッシュだったが、次第にこちらが息が上がるほどのスピードになった。半年もすると、見違えるほど、速いスピードで歩いたり走ったりするようになった。歩いたり走ったりすることがある程度習慣化した後は、生徒から10~20m離れて見守るようにした。移動する場所を指定して一人で歩くトレーニングをすると、次第にいくつかの場所については、「〇〇へ行くよ。」と指示すると一人でその場所まで行けるようになった。私は遠くで見守っただけだ。彼の成長に凄いと思った。

 ④《ミニハードルなどを使ったトレーニング》については、少し遅れて始めた。主に自立活動の時間の最初の三分の一程度を使って行った。足を高く上げたり、バランスを取ったりするためのトレーニングだ。「速く歩く/走る」に役立つだろうと考えて取り組んでみた。ミニハードルをいくつか並べてより遠くへ足を運ぶトレーニングや、ミニハードルをいくつか重ねてより高く足をあげるトレーニングを行った。台を使って昇降のトレーニングも行った。遠くに足を運ぶトレーニングについては、ミニハードル5つ分までできた。高く足をあげるトレーニングについては、ミニハードル4つ分までできた。ミニハードルを組み合わせて、遠くに足を運ぶトレーニングと高く足をあげるトレーニングをミックスしてみたりもした。

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 はじめは難しいかと思ったが、次々と課題をクリアしていくこの生徒に本当に驚いた。生徒の可能性について教えられた気がした。だめかもしれないと思っても、障害の所為にせず、試行錯誤しながら取り組んでみることが大切だということを教わった。

 移動の速度が上がったことで、いろいろな活動に遅刻することなく参加できるようになり、多くの経験を積めるようになった。因果関係を論証することはできないが、この生徒が移動の速度を獲得したことと並行して、手先を使ったトレーニングもうまくいくようになったのではないかという感想をもっている。

「ひねる」を育てる

 この高等部2年生の男子生徒は、対象物をつまむことができず、目と手の協応や視空間認知に弱さをもっていた。いつくかのトレーニングで、何とか対象物をつまんでプットインできるようになり(→こちら→こちら)、目と手の協応や視空間認知にも完全には程遠いものの一定の成長が見られた(→こちら→こちら)。

 対象物をつまむことができるようになった後、取り組ませたものの一つが「ひねる」ことだった。「ひねる」ことができるようになれば、瓶のふたを開けたり水道の蛇口を開け閉めしたりできる。いろいろなつまみを動かすこともできるかもしれない。生徒のQOLは向上するはずだ。そう考えて取り組んだのは、瓶のふたをあけるトレーニングである。

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 配慮したのは以下のことである。素人の浅知恵なので、あるいは間違っていることもあるかと思う。

・つかみやすいように、ふたの大きな瓶にした。

・力が加わりやすいように、滑り止めとしてふたにゴムを巻いた。

・モチベーションを高めるために、瓶の中にiPadのカードを入れ、ふたを開けることができたらiPadを貸すことにした(この生徒はiPadで音楽動画を視聴することが大好きだった)。

・瓶の中のカードが取りやすいように、新聞紙を入れて底上げしておいた。

・はじめは瓶のふたを少し緩めておいた。

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 結果的には、数週間で瓶のふたをあけることができるようになった。さらに練習すると、軽く閉めた状態からも開けることができるようになった。ただし、瓶のふたをあけることを目的とし、彼の自発性に任せすぎたため、期待する結果にはならなかった。手全体で包み込むようにして開けるのではなく、親指ではじくようにして開けるのが癖になってしまったのである。もう少し作業療法士に助言を求めるべきだったと反省している。瓶の中に好きなもののカード入れるのは、作業療法士と支援コーディネーターからの助言だったのだが、手の使い方についての細かい助言を求めなかったのである。私には瓶を親指だけで開けるというのは想定できなかったのだ。その後、作業療法士が来ない時期が続き、助言を受ける機会がなくなってしまった。結果的に、バッド・ハビットが身に付いてしまったのだ。

 瓶のふたをあけ、iPadを借りるためのカードを取りだして私に渡すという生徒のインセンティブは達成されたことになる。また、「瓶のふたを開けることができる。」と記した個別の指導計画の目標も表面上は達成されたことになる。けれども、それが日常生活に生かされないということは、教師の自己満足といわれても仕方がない。個別の指導計画を作り、その達成を目指すやり方には、そういった、教師が自己満足に陥る落とし穴が潜んでいる。

 やはり、素人の浅知恵だけでは、うまくいかないことが多いのだ。

 

 

「視空間認知」を育てる

 高等部2年生の男子生徒を担当したときの話である。

 「円盤積み木を棒に差すトレーニング」をやっていた時のことだ(→こちら)。やっと円盤を持って棒に差すことができるようになったのだが、同じ棒にばかり差そうとするのだ。その棒がいっぱいになり、他の棒が空いているにもかかわらずである。「円盤積み木を棒に差すトレーニング」自体は、トレーニングを繰り返す中で、試行錯誤しながら、また多少バラつきはあるが、3つの棒に差し込めることが多くなってきた。

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 しかし、視空間認知については、もう少し掘り下げる必要があるように思えた。原因について本当のところはわからない。ただ、空いているところに差し込むということが理解できていないことと同時に、空いている棒が見えていないということ、すなわち視空間認知が弱いのではないかと推測した。素人の浅知恵である。この場合、「見えない」とは視覚的な障害ではなく、《注意力》や《気づき》の問題である。そう考えたのは、「円盤積み木を棒に差すトレーニング」の際、円盤を左右と上部の3つに分けて置いた場合、例えば右にある円盤を差し終えると、上部や左側に置いた円盤には気づかず、指で示すとそれに気づくことが多かったからだ。

 この視空間認知を育てようと素人の浅知恵でやってみたのは、ペグ差しである。はじめは丸いやや大きめのペグを使った。ボードの穴は30か所あったが、ボール紙で穴をふさいで10→20→30と増やしていった。思った通り、一つのペグを差し込むと2つ目以降も同じ場所に差し込もうとする。すでにペグが差されているにもかかわらずである。

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 なかなかできなかった。額に手をかざして視線を誘導したり、指で示して場所を教えたりした。手を取ってやって見せたりもしたが、なかなかうまくゆかない。何度やってもできないと、生徒のモチベーションも下がる。褒められることも少ない。指導者側もイライラしてくる。だから、時間を決めて取り組んだ。できない場合は15分でやめる。その代わり毎日取り組んだ。うまくできなかった後には、すでに彼がうまくできているトレーニングを短時間行った。もちろん、称賛した。短時間だが、ご褒美にiPadも貸してあげた。

 10か所の穴に入れることができるまで、1か月程度要したと思う。スムーズにできるようになったわけではない。彼自身、試行錯誤をしながら空いている穴に気づき、全ての穴にペグを差し込むという感じである。その後、穴の数を20→30と増やし、もう1か月程で30か所全部にペグを差し込めるようになった。試行錯誤しながらも何とか一人でできるようになったので、冬休みの宿題にもした。過大な負担のない範囲で協力してほしいとお願いしたが、家庭では積極的に協力してくれた。むしろ、息子が試行錯誤しつつも取り組み、それを達成するのを見て感動的だといってくれた。

 冬休み明け、今度は四角いペク差しに取り組んだ。今度はボードの穴に角があり、方向を合わせなければならないため難しい。特に、目と手の協応が十分でない彼には難しかったようだ。やはりボール紙でいくつかの穴を隠して、だんだん穴の数を増やしていった。ところが、今度は1か月程度で、全ての穴にペグを差し込むことができるようになった。もちろん、スムーズにではなく、試行錯誤しながら空いている穴に気づくという感じだ。ただ、その気づきは間違いなくはやくなっていった。その後、やや小さな四角いペグ差しにも取り組んだが、すぐにできた。すごいと思った。

 こうしてペグ差しのドリルはできるようになったが、それが応用され日常生活のいろいろの場面に生かされるようになったかどうかはわからない。あまり生きていないと思うことも多いし、視空間認知が生きているのではと思う局面もある。けれども、もしかしたらそれはトレーニングにかかわらずはじめからできたのかもしれない。

 生活の基礎的力の育成は難しい。基礎的なトレーニングができたと思っても、それが日常生活の諸局面で応用されるためには、もうひとつハードルがある。同じような目的をもつ、いろいろなトレーニングを経験させるしかないように思う。ただ、簡単な丸いペグ差しより難しい四角いペク差しの方が達成するスピードが速かったことは、一つの希望である。そこには若干でも《応用》の力が働いているような気がする。

※視空間認知・目と手の協応については、iPadのアプリ「振り子にタッチ」もやらせてみた。遊び感覚でやらせたが、これも一定の有効性があるように思う。