特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

「色の認識」の失敗

 うまくいかなかった例である。素人の浅知恵だった。

 色の認識に課題のある生徒だった。前任の先生からの引継ぎがあり、障害が原因だろうとのことだった。一応、赤、青、黄で試してみた。間違えることも多いものの、意外と正解することも多かった。できるのではないかと希望的観測で判断し、素人の浅知恵でトレーニングしてみることにした。そう思ったのは、障害者に対して、支援と配慮をしていればよいという特別支援の風潮に抵抗があったからかもしれない。

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  1. 青、黄、赤の三色のミニコーンを使った。ミニコーンは100円ショップで買った。一色5個セットで100円だった。 
  2. 青、黄、赤のミニコーンを並べ、写真の場合だと一応「赤」といって同じ色のコーンにかぶせるよう指示し、何度かやってみせた。カードの並び順を変えたり、コーンの色を変えたりして何度かやってみせた。赤という色の名前よりも、色を弁別することに主眼をおいた。

 失敗だった。生徒は色の弁別より、コーンをかぶせることに面白さを感じてしまったようだった。かぶせるよう指示されたと思ったのかもしれない。こういうのを特別支援教育では「ノイズ」というのだそうだ。色の弁別という本来の目的のほかに、コーンをかぶせるという「ノイズ」が発生していたわけだ。「ノイズ」のことは、作業療法士から助言された。勤務校に来た作業療法士が、たまたま高校で教えていたころの教え子で、忌憚なく質問できた。作業療法士にも見てもらったが、色の弁別はできているかも知れないとの見解だった。作業療法士の前では、連続して正解するなど、いつもより間違えることか少なかったのだ。間違えるのは、私への甘えによるものかもしれないと考え、もう少し継続してみることにした。

 やり方を変えてみた。

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 コーンをかぶせる「ノイズ」を取り除くため、カードにしてみた。生徒側の方をミニコーンにしたのは、カードより持ちやすいと考えたからだ。

  1. 黄、赤、青のカードを並べる。ミニコーンを1つ出し(写真では青)、同じ色のカードの上に置くよう指示しながら、何度かやってみせる。カードの並び順を変えたり、コーンの色を変えたりして何度かやってみせる。「色」という言葉がわからない可能性が高いので、同じ色のところにおくということをイメージさせたかった訳だ。もちろん、この場合、色を認識できているということが前提になる(本当は、このことが問題なのだ)。
  2. 生徒にやらせてみる。うまくできたら大いに称賛し、カードの並び順を変えたり、コーンの色を変えたりして、またやらせる。何度も繰り返す。間違えても騒がず、ポーカーフェイスでもう一度やらせる。間違えたとき過剰な反応をすると、それが面白くなってわざと間違えようとすることがある、ということは作業療法士から助言された。

 うまくはいかなかった。コーンを使わずカードとカードでやってみたり、色に意味をもたせるため信号の絵カードを使ってみたりもしたが、ダメだった。色の弁別も、色と色の名前を結び付けることも、うまくはいかなかった。私としては、50%程度は正解できるよう成長したとも思ったが、冷静に考えてみれば希望的観測のレベルだ。そもそも、色の認識については、完全に正解するレベルでないとできたとはいえないだろう。

 作業療法士とも話したが、うまくいかない原因としていくつか考えられる。

  1. 障害のために、色を認識する能力がない。
  2. 本当はできているが、ふざけてわざと間違えている。
  3. 前のカードの残像が残っていて、次のカードが判断できない。

 どれも原因として考えられる。原因を探ろうとしてみたが、本当のところは今でもわからない。途中から追加した「黒」は正解できることが多かったので、まったくふざけてばかりしているとも考え難い気もする。

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 しかし今振り返ってみると、私自身が色の分節化のしくみをわかっていなかった。あるいは考えていなかったのだ。やってみたトレーニングは、はっきりいえば、色の認識ができることが前提になっている。色が認識できることを前提に、色の認識を育てようとしていたのだ。パラドックスである。色の弁別と色の名前を分けて考えたことが間違いだった。赤や青は単なる色の名前ではなく、概念なのだ。人間は、アプリオリに色を認識し弁別するのではないだろう。それは文化の所産なのだ。フェルナンド・ソシュールが言語が世界を分節化するといったことが,おそらくは色にも該当する。色のグラデーションの中で、それぞれの色の境目がどこか。どこまでが赤で、どこまでが黄色か。青はどこからどこまでかは、属する文化が決定している。赤という概念のない文化に属している人々には、赤は見えないのだ。そう考えると、色の認識を育てることは難しい。色の認識を育てるということは、文化を身体に取り込むことである。全く新しい方法論が必要になるのかもしれない、と今は考えている。

 生徒は高等部を卒業していった。まったくもって、素人の浅知恵だった。