特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

特別支援教育のインセンティブ

 特別支援学校に異動して違和感をもったことの1つが、先生方が必要以上に保護者に気を遣うことと、学校行事等を奇妙なほどに盛り上げようとすることだ。保護者の意向を尊重することは当然のことであり、子どもに障害があるのであればなおさらのことだが、子どもの発達や成長をどうしたいのかということを超えて、保護者自身を喜ばせることに力点がおかれているのではないかと感じてしまうことがしばしばある。そしてそれは、学校行事において顕著に現れ、生徒の教育を超えて、保護者に向けてプレゼンテーションし、アピールする場であるかのように感じることもある。

 例えば運動会だ。軽度の障害の生徒を徒競走やリレー、ダンスなどに取り組ませることについては十分理解できる。生徒が生活経験をつみ、伸びていく契機になるだろう。けれども、重度の障害の生徒についてはどうだろう。私が経験した特別支援学校では、車いすの肢体不自由児や、やっと歩けるような生徒、ストレッチャーに仰臥したままの重症児、あるいは認知力が未発達で走るコースを理解できない生徒も基本的に同じように参加させるのだ。走行順やコースにある程度の配慮をし、生徒の手をひいたり背中を押したりし、教師が自ら工夫して作成した装置や器具を使い、あるいは人目をひく衣装を着せたり、ストレッチャーや車いすに派手な装飾を施したりして参加させるのである。児童生徒にとってどんな意味があるのだろうと素朴な疑問を抱いてしまうわけだが、保護者はそれを嬉々としてビデオに収め、参観者は手をたたいて応援し、ときには感動の涙を流すのである。

 中島隆信『新版・障害者の経済学』は、「障害児教育のインセンティブ」という一節を設け、このことを論じている。すなわち、障害者の保護者にとって特別支援学校は子どもを無料で預かっている福祉施設の側面が大きいが、教員にはプロの教育者としての自負がある。教員は、福祉施設の職員より多額の給与をもらっているのだ。介護するだけなら福祉事業所の職員がするべき仕事であり、プロの教育者である自分たちの任務ではないということだ。そこで、プロの教育者としてのアイデンティティーを保障し、学校と福祉施設の差別化を図る特別支援教育のミッションが必要となる。そのひとつが、《普通校の児童生徒と同じことをさせる》というものである。職員数に制約のある福祉施設ではできず、人的余裕のある学校だからこそできることである。

 しかし、中島氏は、肢体不自由児本人の身になって考えれば、こうした運動会は「聴力障害者が聴力の競争に参加したり知的障害者が学力コンテストを受けたりすることと同じである」といい、「こうした運動会に熱意を燃やす教員は、障害児たちが比較劣位にある能力で競うことによって、どのような教育上の効果が生まれるかを考えたことがあるのだろうか」と問うのである。

 辛口の批評である。特別支援学校教師にとっては耳の痛い言葉である。けれども、中島氏の言葉は重い。中島氏自身が、脳性麻痺による障害のある長男をもつ父親だからである。批評家の安全な場所からの発言ではない。当事者としての発言なのだ。私自身、特別支援学校でなんとなく考えていたことが、中島氏の書物によって言語化され、明確化されたと感じている。

 中島氏は、この文章を次のように結んでいる。「教員の仕事のやり甲斐とか親や来賓の感動のための運動会ならば、教育予算でなく、そうした人たちからの寄付で費用を賄うべきであろう。」

 傾聴すべき言説であろう。

中島隆信『新版・障害者の経済学』(東洋経済新報社)2018