特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

奇妙な用語「合理的配慮」

  最近はやりの、「合理的配慮」は奇妙な用語だ。言葉の意味をそのままとれば、配慮には合理的なものとそうでないものがあり、合理的な配慮をすべきだということになる。その場合、「合理的」とは、障害のある人たちにとって理にかなった、というニュアンスになるのが普通の感覚だろう。「合理的」という言葉のベクトルは、配慮される側、つまり障害のある人たちの方を向いているわけだ。ところが実際は全く違うのだ。「合理的配慮」の「合理的」とは社会や学校に過度の負担がかからない程度でおこなえばいい、という意味なのだ。

 「合理的配慮」とは、もともとインクルーシブ教育の文脈で語られてきた言葉である。インクルーシブ教育とは、障害者など社会的に不利な立場にある人たちが、一般的な教育制度の中で適切な支援を受けながら、学校教育や生涯教育の機会を得ることを指す言葉である。インクルーシブ教育は、「障害者の権利に関する条約」(2006)第24条に明記された概念であり、この条約の第2条に登場するreasonable accommodation が「合理的配慮」と訳されたようだ。accommodation は「助け」という意味であるが、相手のニーズに合わせるというニュアンスをもった言葉なのだそうだ。reasonable accommodation は、「道理に合った助け」とでもなろうか。

 ところが、中教審初等中等教育分科会報告(2012)では、「合理的配慮とは、障害のある子どもが、他の子どもと平等に教育を受ける権利を享有・行使することを確保するために、学校の設置者及び学校が必要かつ適当な変更・調整を行うことであり、障害のある子どもに対し、その状況に応じて、学校教育を受ける場合に個別に必要とされるものであり、学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」と定義された。「合理的配慮とは」という主語が、下線の部分にまでかかっている。もっとも、「障害者の権利に関する条約」第2条でも、合理的配慮について、「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。」と規定しており、中教審の報告もこれを受けたものと考えられる。

 けれども、言葉の意味から考えて、「合理的配慮」の本来の意味は、「相手のニーズに合った理にかなった助け」であり、中教審報告や「障害者の権利に関する条約」の前半部分がこれにあたると考えるべきであろう。「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」の部分は、付け足しであり、付帯事項と解すべきだ。ところが、この概念が流布する過程で、この付け足し部分が「合理的」の定義となってしまった。実際、特別支援教育の研修会や講演会でも、「合理的」とは「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」であるという説明を受けることが常であり、強調して語られることもしばしばである。

 これは一種の《転倒》である。うさん臭さを感じるのは私だけではなかろう。「均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」という「障害者の権利に関する条約」の一節が、中教審答申では「体制面、財政面において」とより具体的な表現に変えられたことにも恣意的なものを感じる。行政側が、財政上の問題や社会システムの問題から、「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」という部分を強調した結果、こうした《転倒》が生じたのかもしれない。ここでは、「合理的」という言葉のベクトルは障害のある人たちではなく、行政を向いているということになる。「配慮」という言葉は障害者を向いているのに、「合理的」という言葉は行政を向いている。「合理的配慮」が奇妙に感じられるのは、「合理的」と「配慮」が別の方向を向いているからだろう。

 いずれにしても「合理的配慮」という言葉は、本来の意味とは違った意味で日本社会に流布してしまっているようである。

 

柘植雅義・木舩憲幸『特別支援教育総論』(放送大学教材)2015

安藤隆男『特別支援教育基礎論』(放送大学教材)2015

茂木俊彦『障害児教育を考える』(岩波新書)2007

高谷清『重い障害を生きるということ』(岩波新書)2011