特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

ある弱視の女子生徒のこと

 普通高校に勤務していた頃のことだ。弱視の女子生徒がいた。ただの弱視ではなく、次第に視力が低下して最終的には目が見えなくなる可能性があるという病気/障害のある生徒だった。学校では、日々の経験から階段などでもつまづくことはなく、友達に支えられて表面的には何とか普通に生活していた。ただ、視力の低下は相当進んでいるようで、教科書や授業で使うプリントの文字を読むのもかなり大変そうだった。日本史を担当していた私は、たまたま私が持っていた拡大鏡を使うことを提案したり、プリントを拡大コピーすることを提案してみたりしたが、視野が狭くなってかえって読みにくいとのことだった。特別扱いされるのではなく、他の生徒と同じように接してほしいという思いもあったのだと思う。

 数年後、特別支援学校に異動し、特別支援学校免許取得のため放送大学の講座を受講した私は、教科書に先の弱視の女子生徒と同じ事例が載っているのを発見した。

プリント等の拡大コピーは容易に拡大教材を作成することのできる方法であるが、文字間、行間ともに拡大されてしまう。紙面サイズも大きくなることから、視距離の短い弱視児にとっては文字を追う範囲も拡大する。このため、文字資料については、ワープロ等で紙面サイズは拡大せずに文字サイズを拡大することが望ましい。

(柘植雅義・木舩憲幸『特別支援教育総論』放送大学教材)

 そうだったのか。なぜそんな簡単なことに気づかなかったのだろうか、と思った。私自身も無知だったし、それを私に助言してくれる教師も周りにはいなかった。恥ずかしい話だが、その頃の私は、特別支援学校がセンター機能を持っているということも知らなかったし、視覚支援学校に助言を受けるということさえも思い浮かばなかった。もちろん、それをやってその生徒の障害が緩和されたかどうかはわからない。けれども、やってみる価値はあったし、その程度のことは「合理的配慮」の範囲に十分に入るだろう。

 その生徒は卒業して視覚障害者のための学校へ進学したが、有意義な高校生活を送らせてあげられなかったのではないかと考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいである。あれからまだ5年程度しか経過していないが、現在の普通高校の先生方は、もう特別支援教育のしくみについて、最低限の知識を持っているのだろうか。それとも、あの頃の私と同じなのだろうか。