特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

ASDと感覚過敏

 自閉症スペクトラム障害ASD)には感覚過敏がしばしばみられるという。感覚過敏には、普通は気づかないようなものを見つける「視覚過敏」、大きな音や特定の音に過剰な反応を示す「聴覚過敏」、特定のものに触り続けたり、逆に特定の感触が苦手でそれを避け続ける「触覚過敏」、特定の味に敏感でしばしば偏食の原因となったり、逆に絶対味覚ともいうべき繊細な味覚を有していたりする「味覚過敏」などがある。

 「聴覚過敏」については、高校在職中に忘れがたい記憶がある。発達障害自閉症)の疑いがあった生徒が、クラスの中の人間関係や進路について悩み、私のいる社会科準備室に相談に来たことがあった。相談というより、話を聞いてほしい、わかってほしいということだったのだと思う。私は気持ちを和ませようと、音楽でも聴こうかといってジャズのCDをかけた。若干、ボリウムが大きかったのかもしれなかったが、その瞬間、生徒は両耳をふさいで「やめてください」と叫んだのだった。

 いま思えば、あれは聴覚過敏だったのだろう。ASDの人は、聴覚過敏をともなう人が多いようだ。普通の人(定型発達の人)は、聴覚について「選択的注意」という機能が働くという。必要なものに耳を傾け、その音を選択的に聞き分けることができるのだ。ところが、ASDの人は、この「選択的注意」という機能か働かず、周りのすべての音が等価となって一斉に押し寄せてくるというのだ。自分を取り巻く音が等価になるということは、すべてがノイズになるということでもあり、音の世界から意味が消滅するということでもある。とても耐えられることではなかろう。

 ところで、同じことが視覚にも起こっている可能性があるのだという。目の前にいる人も、テーブルの上の物体も、その背景にあるものも、目で見る視覚的世界が意味を失った等価なものとして押し寄せてくる。そうした視覚的なノイズの洪水から身を守るために、ASDの人は自分の興味あるものだけに注意を払うというのだ。その結果、「同一性へのこだわり」と「社会性・コミュニケーションの障害」という2つの症状(特性)が生じるという訳だ。私には、この考え方の医学的、学問的な成否を判断する能力はないが、文系的には理解しやすい、魅惑的な考え方に思える。