特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

稗田阿礼とサヴァン症候群

 『古事記』の序文には、その成立について、天武天皇に舎人として仕えていた稗田阿礼という人物が、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて、古くから大王家に伝わった『帝紀』と『旧辞』の誦習を命ぜられたと記されている。奈良時代に入って元明天皇詔により太安万侶という人物稗田阿礼の暗記していたものを筆録し、712年に『古事記』が成立した。

 帝紀』は大王の皇位継承を中心とする伝承や歴史をまとめたものであり、『旧辞』は大王家に伝わる神話や伝承であるとされる。いずれも現存していない。大王と記したのは、「天皇」号の成立が7世紀後半と考えられるからだ。

 荒唐無稽な話だと思っていた。そんな超人的な記憶力のある人物が存在するのだろうか。実際、稗田阿礼の名は『日本書紀』にも『続日本紀』にも見えず,そのことから架空の人物とする説も存在する。古事記には神話的な部分が多く含まれており、稗田阿礼についても架空の話か、あるいは何かを象徴する話として考えることもできよう。だとしたら、稗田阿礼誦習させたことを何のためにあえて記したのだろうか。稗田阿礼は神話的な時代ではなく、7世紀後半から8世紀前半の人物である。『古事記』が成立したほぼ同時代のことについて、そんないい加減なことを記すだろうか。古事記日本書紀の比較的新しい時代の記述については、脚色も多くもちろんすべてがそのままの事実とはいえないが、記述に関係する遺跡が実際に発掘されるなど、ある一定の事実に基づいて記されていると考えられる。

 「サヴァン症候群」のことを知るに及んで、稗田阿礼のスーパー記憶力についてもありうる話かも知れないと考えるようになった。「サヴァン症候群」はダスティン・ホフマン主演の映画『レインマン』で有名になったが、これらの人々は、驚異的記憶力、音楽、計算能力、知覚・運動・芸術、時間や空間の認知など特定の領域に天才的な能力をもつ特性である。天才的能力を有する一方、他の部分の能力は平均的かそれ以下のことが多いという。サヴァン症候群は男性に多く、その半数に自閉症スペクトラム障害ASD)か関連疾病がみられるとされている。2001年の研究報告では、自閉症の0.5~1%程度の割合で存在するそうだ。

 サヴァン症候群の具体的様相を、岩波明発達障害』によってまとめておきたい。

[驚異的な記憶力]電話帳に収められた氏名や住所をすべて記憶している例や、全米の都市と道路をすべて記憶している例が報告されている。ダウンによる報告の中にも、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を一語一句違わずに暗唱する患者が取り上げられている。

[音楽的才能]絶対音感や驚異的な楽曲の記憶力に関する報告が多い。また、一度聴いただけの楽曲を完璧に演奏する能力や、20もの楽器を正確に使いこなす能力などが報告されている。サヴァン症候群の中で最も頻度の高い能力の一つ。

[計算能力]任意の日付の曜日を瞬時に答えるというカレンダー計算能力(サヴァン症候群の中で最も頻度の高く、研究も多い)。また、3桁の整数の3乗を瞬時に暗算する例や、20桁の整数が素数であるか否かを判断する例なども報告されている。

[知覚・運動・芸術]過去に見た情景を正確に記憶・再現する直観像記憶の例や、提示された無数の対象の数を瞬時に答える例、母国語でない言語の会話を瞬時に再現する例などが報告されている。絵画や彫刻などの芸術領域に才能を発揮する例もある。

[時間・空間的認知能力]時計を見ずに正確な時間を答える能力。一切の道具を使わずに正確な距離を答える例などが報告されている。

 7世紀後半の日本にサヴァン症候群の人が存在しても不思議ではない。何らかの目的や意味があって稗田阿礼の話が作り出されたと考えるより、稗田阿礼サヴァン症候群と考える方が合理的な気がする。

 

岩波明発達障害』文春新書2017

岩波明『天才と発達障害』文春新書2019

岩波明『誤解だらけの発達障害』宝島社新書2019