特別支援の不思議な世界

高校教師だった私が特別支援学校勤務をきっかけに知ったこと考えたこと

ルソーの差別的優生思想

 ジャン・ジャック・ルソーの障害者(病弱者)に対する考えは有名である。それは明白な優生思想的差別であるが、今日的立場から断罪するのではなく、論理構成を検証することが重要であると考えられる。なぜなら、それは歴史的制約だけでなく、ルソーの思想そのものにある欠陥や限界であると考えられるからである。

  病弱な生徒を預かる人は先生の職務を看護人の職務に変えてしまう。そういう人は生命の価値を増すためにもちいるべき時間をむだにして、何の役にもたたない生命をまもる。長いあいだ保護してやったのに、いずれ息子が死ぬことになると、涙にくれた母親から非難される、というばかな目にあう。

 その子が八十歳まで生きるとしても、わたしは病弱な子はひきうけないつもりだ。いつまでも、自分にとっても他人にとってもなんの役にもたたず、自分の体をまもることばかり考えていて、体が魂の教育をさまたげる、そういう生徒はごめんだ。そういう生徒にむだな心づかいをそそいだところでどうにもならない。社会の損失を二倍にし、一人ですむところを、二人の人間をうばいさるだけのことではないか。わたしのかわりにだれかほかの人がそういう病人をひきうけるというなら、それもけっこうなことだし、そういう人の情けぶかい行為をみとめもしよう。しかし、わたしの才能はそういうところにはない。ひたすら死をまぬがれようと考えている人間に生きることを教えることはわたしにはできない。

(ルソー『エミール(上)』岩波文庫 p55)

 ルソーの障害者差別の根底には、『エミール』冒頭の有名な一節「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。」という考え方が関係している。ルソーの思想の確信部分である。すなわち、「自然」状態をユートピアに想定し、そこへの回帰を説く考え方だ。自然は、人間を善良で自由、幸福なものとして作ったが、人為的所産である社会が人間を堕落させ、奴隷とし、不平等で悲惨な存在にしてしまった。したがって、すべてがうまくいっていた「自然」状態へ回帰するべきだというのである。

 それでは、ルソーにおいては、なぜ障害者は差別されるのか。

人為的不平等は、それが自然的不平等と同じ釣り合いを保って一致しなければ常に自然法に反する。

(ルソー『人間不平等起源論』岩波文庫 p131)

 これは逆に言えば、人為的不平等は、自然的不平等と一致すれば、自然法に反しないということになる。障害をもって生まれてくる人々はそれが「自然」状態とされ、障害者への差別は、自然法の名の下に、自然的不平等として是認されてしまうのだ。障害者は差別されるのが「自然」状態だというわけだ。ルソーのいう「自然」状態は、原始的未開状態ではなく論理構成上の戦略的概念として考えるべきものだが、ルソー自身が「自然」を文字通りの自然と混同してしまっている。本来はありもしない、架空の「自然」状態で、障害者が自然的不平等の立場におかれていると勝手に想定しているわけだ。

 『エミール』を読むと、健康で頑丈な肉体に、憧れともいえる極めて肯定的な記述がなされており、それが自由で幸福な自然状態だというニュアンスで語られる。障害者(病弱者)への否定的で差別的な言説は、それとは逆のベクトルからの評価ということになるのだろう。

 健常者も障害者も含めた幸福な自然状態ではなく,健康で頑丈な肉体のうちに自然状態を構想したところは,時代的制約ともいえるが,ルソーの躍動的な肉体への《あこがれ》が投影されたものというのが本当のところだろう。